君が生まれて
2001年 02月 25日
君が生まれて(1991.02.25)
ビンビンビンという音と共に横を向いた小さな君が、あっという間に「土色」になり、石のように硬くなる。。。「だれか!!」と叫んだその時、看護婦がとんできて、人工呼吸を始めた。
何事もなかったようにピンクの肌、呼吸をとりもどすまでに、どれほどの時を要したのかは、わからない。
「おねがい、死なないで!」とおもいながら、ただふるえていた。
人工呼吸器の管が折れ曲がると、酸素が届かなくなることがあるそうだ。
それを聞いてから、眠れない夜が続く。毎日、毎日、母乳をはこびながら君をみつめて半年がすぎたころ、2200グラムに成長し、めでたく退院!
5歳になる娘と共に待ちに待った退院だ。
840グラムで生まれた君が、いまこの腕にだかれとてもよく笑う。
ちいさな泣き声だけど、きっと元気な男の子になるだろう。
小さく生まれたのだから、障害やおくれはあるのだろう、私の罪だけど悔いのないよう、少しでも一つでも楽しい思いと自由を手にして生きよう。
じゃりんこ
長女の幼稚園で知り合ったお母さんたちが、上の子の登園後に”じゃりんこくらぶ”と称して、お弁当もちよりで下の子を連れて集まって遊んだり、よろず育児相談会や学習会をしていた。
「たった27週しかお腹のなかで育ててあげられなくてごめんね!」
五体不自由に産んでしまい、私は1人前の女ではないという思いで途方にくれた時....町行く人の心ない言葉にうちひしがれたとき....公的制度にいくてをはばまれたとき....そのときどきに”じゃりんこ”が心の支えとなり、サポートしてくれた。
いつもそこでパワーをもらい、転勤族で育って来た私がそこで、初めて「地域で暮らすことの意味」を知ることになる。
転勤のない夫と知り合い、この土地で生きていくこととなり、子供が産まれてからも好きにはなれずにいた街が、かけがえのない人の輪をさずけてくれた。
診断を受けて
君が1歳をすぎたころ、ようやくずりばいを始めた頃だったと思う。北九州で500グラム程で産まれた赤ちゃんが、1年たった今こんなに元気に育ちましたとテレビの画面で飛び跳ねていた。
涙がとまらない....「ごめんね、小さく生まれても元気な子がいるよ、どうしよう、パパごめんね!」...もう落ち込む気持ちはとまらない。
このまま時が過ぎるのは我慢できない、はっきりさせたいと医師につめより、1歳3か月で「脳性運動障害の診断と訓練施設の紹介」をうけた。
小さく生まれたから遅れていて当然とか、お母さんのノイローゼなどと言われ....手遅れになると悩むあせりから救われ、どこかほっとしていた。
たくさんの言葉を話す君がやがて、「あんよ、たっち、どちて?」と聞きはじめたのもこの頃だった。絶句する私にかわり、じゃりんこで親しくしている友人が、「カワイイアンヨ!大事にしようね!」と頭をなでていってくれた。
「わかるときがきたら、貴方の言葉で伝えなさい。それまでに、う〜んと勉強しようね!」
いつでも相談にのるから皆で守っていこうと....心を開くこと・自分だけで囲ってしまわないようにと諭された。
孤独で氷河のようにとざしていた何かがスーッととけていった。
日本社会では典型的な我が家だもん!
私の愚痴など聞く暇はない夫に、食べて寝るだけで精一杯の家庭なのだ。
そんなとき、こぼせる相手はオアシスだった。
障害児保育
3歳を迎える頃、通園施設を探していた時も、じゃりんこの仲間達が情報を集め協力してくれたうえに、障害児保育の認可にも力をそそいでくれた。
リズム運動をとりいれた個性的な保育に魅かれて訪ねた時、「よくここまで育てられましたね!これからは共に頑張りましょう。」といわれた。
市に認められるまでということで、翌日から母子通園が始まった。
0歳から5歳までの園児が全部で40名程のアットホームな小さなところ木の香りがやさしい園舎だ。
よつばいがやっとのKに、5歳児がバケツで水を浴びせる事件がおきた。
Kのクラスのきかんぼうたちがいち早くかけつけ、むせて苦しむ子を守るように囲み、抗議をしていた。
「もう仲間になっていて、助け合っているんだよ!」子供同士で解決できそうな時には、見守ることを私自身が学んだ。
子供達に励まされて、君はよつばいでどこへでも行くようになる。
そんなエピソードがいっぱいにあふれるころ、ついに運動は市議会へもちこまれた。その後の対応ものらりくらりとままならぬゆえ、北海道公聴課に手紙を書き、やっとの事で市も障害児保育を認めた。
入園からすでに1年半がすぎていた。
娘の学校と保育園とパートと障害児の水泳療育活動と走り回り、この頃は夫とすれ違い生活で、夫が何を考えていたか、何を着ていたか知らない。
あまりの忙しさに体調をくずしたことと、入学までは字を教えないという趣旨にやむなく退園、4歳の秋に幼稚園にかわった。
障害児4人に1人の先生がつき、完全母子分離の通園が保障されていた。
運動会では、きれいな芝生の上をよつばいで競争した。同じレベルの子供と共に統合保育がおこなわれるのは、よかった。
なかまがいて、なおかつお友達が居て、歩けないのは自分だけではないという心強さがある。
その上、長時間保育で5時までいられるので、わたしにとっても夢のような時間があたえられた。仲良しのお母さん達とお茶を飲んだり、本を読んだり、いつになく優雅な時をすごしていた。楽しい時は、嵐のようにすぎた。
御 入 学
就学相談をむかえた。
いつも、いつも、おねえちゃんの友達が遊びに来ていて、年齢をこえた友達がたくさんいるから、Kは地域の学校を信じて疑わない。
難しいことは、障害児保育の認可運動を通じてわかっていた。
予想しなかったのは、著しくKの心を傷つけられたこと。
親とは別室に通され、初対面のおじさんが複数で何やら質問をする。
早生まれでまだ5歳の子供に聞いて良い内容だろうか?
「たいへんなおみやげ」をもらうことになってしまう。怒りはかくせず、のちにしっかりと謝罪の言葉をいただいたものの、繰り返される相談に疲れ円形脱毛症になってしまった。それまで気がつかなかった私がくやまれた。
まったく愚かな親である。
”君が入学して、おねえちゃんが登校拒否になったらどうするか?”
”自殺する人もいるんだよ”
おかあさんがたいへんだから...別室で私が聞かれたことそのままだ。
もっと有意義な質問マニュアルをつくられないだろうか?
せめて子供にだけは、”一人で困った時はどうしたらいいとおもう?”
”できないことはお友達に頼めるかい?”など学校生活に役立つことを聞いてくれてもバチはあたらないだろう。
面倒なことは両親に告げるべきだ!!
世界人権宣言を、ピアジェの教育論を少なくても把握すべきだ。
それでも裁判に至らず入学できたのは、地域や多くの人の支援のたまもので、また先をいく子供達の努力とご両親の尽力とおもい、深く感謝している。
我が町では、就学相談会場に自動ドアはもちろんエレベーターもない。
面接室は階段を40段程上がった2階の奥だ。6人もの先生に囲まれて登ったが....息子を背おい、夫が車いすをかついでも誰一人として手をかさない。
誰かの手を借りよう物ならタイヘンだ!......すぐにいわれただろう
”普通学級は無理です”と...。
ここへは毎年、十分なケアを必要とする仲間達も呼び出される。
母親だけで来たらたいへんだ。首の座らない子をだいて階段を登るのは危険だし、相互の負担も大きいことは熟知当然のことと思うが、わがままなのだろうか?
社会にどこまで求めていくのか、これからの課題である。入学してから2年がすぎようとしている。普通学級に通う障害児たちのこれからを考える会を確立したいとおもっている。
あ ゆ み
3か月に1度通う札幌の寮育訓練で、これまでの集大成とでもいうべきか
それまでクラッチもやっとのはずの息子が「歩けそうな気がするから...見てて」といいながら歩いた。
もちろんほんの数歩、歩けたと認めるのは私くらいだろう。夢にまで見た姿...顔を真っ赤にして...1...2...3...
その後先生と雑談している私を残して、ふうっと消えた数分間、シャイな君はどこでうれし涙と鼻水をふいていたのか...くしゃくしゃの笑顔で待ちあい室の夫のもとへ...このときふっとよぎった思い、この後何か大きく体調をくずさないといいけど!!...があたってしまう。
障害の上に難病まで...なんてご丁寧にかぶさってくるんだろう。
血小板減少性出血紫斑病:国内特定疾患で2か月の入院治療を余儀なくされる。
鼻血や歯茎の出血におびえる毎日だ。
薬のせいで会う人ごとに太ったとか、おたふくとかいわれるものでご機嫌ななめだ!
いつ見ても子供の寝顔は最高だ、こんなかわいい寝顔はみてなきゃ損!!
そう思っての見張り番、楽しもう...きっと元気になるんだ。
きかんぼうでやんちゃだから、車いすと歩行器には保険をかけようと思ってたんだもの。
私の願いはひとつだけだったのに...。
なにもいらないから、ただ日々健やかに登校し友達と語らい・あそび・平穏に眠れる夜があればいい!!
皆が日頃思っていること、ありきたりの願いさえも贅沢なのだろうか?
2か月の寝たきり生活がくれたものは、おどろくほどの両手の器用さ。
プラモデルに折り紙、子供はなんてすごいのだろうか。
入院さえも無駄にはしない。折り紙などはできないものと、とうにあきらめていたのに今では一人で本をみてつくっている。
君の努力、地域の仲間達にささえられて乗り越えて来た大切な糧をほこり
にして、不自由な街だけれど、心豊かに生きていきたい。
全ての人に感謝を込めて!!
ビンビンビンという音と共に横を向いた小さな君が、あっという間に「土色」になり、石のように硬くなる。。。「だれか!!」と叫んだその時、看護婦がとんできて、人工呼吸を始めた。
何事もなかったようにピンクの肌、呼吸をとりもどすまでに、どれほどの時を要したのかは、わからない。
「おねがい、死なないで!」とおもいながら、ただふるえていた。
人工呼吸器の管が折れ曲がると、酸素が届かなくなることがあるそうだ。
それを聞いてから、眠れない夜が続く。毎日、毎日、母乳をはこびながら君をみつめて半年がすぎたころ、2200グラムに成長し、めでたく退院!
5歳になる娘と共に待ちに待った退院だ。
840グラムで生まれた君が、いまこの腕にだかれとてもよく笑う。
ちいさな泣き声だけど、きっと元気な男の子になるだろう。
小さく生まれたのだから、障害やおくれはあるのだろう、私の罪だけど悔いのないよう、少しでも一つでも楽しい思いと自由を手にして生きよう。
じゃりんこ
長女の幼稚園で知り合ったお母さんたちが、上の子の登園後に”じゃりんこくらぶ”と称して、お弁当もちよりで下の子を連れて集まって遊んだり、よろず育児相談会や学習会をしていた。
「たった27週しかお腹のなかで育ててあげられなくてごめんね!」
五体不自由に産んでしまい、私は1人前の女ではないという思いで途方にくれた時....町行く人の心ない言葉にうちひしがれたとき....公的制度にいくてをはばまれたとき....そのときどきに”じゃりんこ”が心の支えとなり、サポートしてくれた。
いつもそこでパワーをもらい、転勤族で育って来た私がそこで、初めて「地域で暮らすことの意味」を知ることになる。
転勤のない夫と知り合い、この土地で生きていくこととなり、子供が産まれてからも好きにはなれずにいた街が、かけがえのない人の輪をさずけてくれた。
診断を受けて
君が1歳をすぎたころ、ようやくずりばいを始めた頃だったと思う。北九州で500グラム程で産まれた赤ちゃんが、1年たった今こんなに元気に育ちましたとテレビの画面で飛び跳ねていた。
涙がとまらない....「ごめんね、小さく生まれても元気な子がいるよ、どうしよう、パパごめんね!」...もう落ち込む気持ちはとまらない。
このまま時が過ぎるのは我慢できない、はっきりさせたいと医師につめより、1歳3か月で「脳性運動障害の診断と訓練施設の紹介」をうけた。
小さく生まれたから遅れていて当然とか、お母さんのノイローゼなどと言われ....手遅れになると悩むあせりから救われ、どこかほっとしていた。
たくさんの言葉を話す君がやがて、「あんよ、たっち、どちて?」と聞きはじめたのもこの頃だった。絶句する私にかわり、じゃりんこで親しくしている友人が、「カワイイアンヨ!大事にしようね!」と頭をなでていってくれた。
「わかるときがきたら、貴方の言葉で伝えなさい。それまでに、う〜んと勉強しようね!」
いつでも相談にのるから皆で守っていこうと....心を開くこと・自分だけで囲ってしまわないようにと諭された。
孤独で氷河のようにとざしていた何かがスーッととけていった。
日本社会では典型的な我が家だもん!
私の愚痴など聞く暇はない夫に、食べて寝るだけで精一杯の家庭なのだ。
そんなとき、こぼせる相手はオアシスだった。
障害児保育
3歳を迎える頃、通園施設を探していた時も、じゃりんこの仲間達が情報を集め協力してくれたうえに、障害児保育の認可にも力をそそいでくれた。
リズム運動をとりいれた個性的な保育に魅かれて訪ねた時、「よくここまで育てられましたね!これからは共に頑張りましょう。」といわれた。
市に認められるまでということで、翌日から母子通園が始まった。
0歳から5歳までの園児が全部で40名程のアットホームな小さなところ木の香りがやさしい園舎だ。
よつばいがやっとのKに、5歳児がバケツで水を浴びせる事件がおきた。
Kのクラスのきかんぼうたちがいち早くかけつけ、むせて苦しむ子を守るように囲み、抗議をしていた。
「もう仲間になっていて、助け合っているんだよ!」子供同士で解決できそうな時には、見守ることを私自身が学んだ。
子供達に励まされて、君はよつばいでどこへでも行くようになる。
そんなエピソードがいっぱいにあふれるころ、ついに運動は市議会へもちこまれた。その後の対応ものらりくらりとままならぬゆえ、北海道公聴課に手紙を書き、やっとの事で市も障害児保育を認めた。
入園からすでに1年半がすぎていた。
娘の学校と保育園とパートと障害児の水泳療育活動と走り回り、この頃は夫とすれ違い生活で、夫が何を考えていたか、何を着ていたか知らない。
あまりの忙しさに体調をくずしたことと、入学までは字を教えないという趣旨にやむなく退園、4歳の秋に幼稚園にかわった。
障害児4人に1人の先生がつき、完全母子分離の通園が保障されていた。
運動会では、きれいな芝生の上をよつばいで競争した。同じレベルの子供と共に統合保育がおこなわれるのは、よかった。
なかまがいて、なおかつお友達が居て、歩けないのは自分だけではないという心強さがある。
その上、長時間保育で5時までいられるので、わたしにとっても夢のような時間があたえられた。仲良しのお母さん達とお茶を飲んだり、本を読んだり、いつになく優雅な時をすごしていた。楽しい時は、嵐のようにすぎた。
御 入 学
就学相談をむかえた。
いつも、いつも、おねえちゃんの友達が遊びに来ていて、年齢をこえた友達がたくさんいるから、Kは地域の学校を信じて疑わない。
難しいことは、障害児保育の認可運動を通じてわかっていた。
予想しなかったのは、著しくKの心を傷つけられたこと。
親とは別室に通され、初対面のおじさんが複数で何やら質問をする。
早生まれでまだ5歳の子供に聞いて良い内容だろうか?
「たいへんなおみやげ」をもらうことになってしまう。怒りはかくせず、のちにしっかりと謝罪の言葉をいただいたものの、繰り返される相談に疲れ円形脱毛症になってしまった。それまで気がつかなかった私がくやまれた。
まったく愚かな親である。
”君が入学して、おねえちゃんが登校拒否になったらどうするか?”
”自殺する人もいるんだよ”
おかあさんがたいへんだから...別室で私が聞かれたことそのままだ。
もっと有意義な質問マニュアルをつくられないだろうか?
せめて子供にだけは、”一人で困った時はどうしたらいいとおもう?”
”できないことはお友達に頼めるかい?”など学校生活に役立つことを聞いてくれてもバチはあたらないだろう。
面倒なことは両親に告げるべきだ!!
世界人権宣言を、ピアジェの教育論を少なくても把握すべきだ。
それでも裁判に至らず入学できたのは、地域や多くの人の支援のたまもので、また先をいく子供達の努力とご両親の尽力とおもい、深く感謝している。
我が町では、就学相談会場に自動ドアはもちろんエレベーターもない。
面接室は階段を40段程上がった2階の奥だ。6人もの先生に囲まれて登ったが....息子を背おい、夫が車いすをかついでも誰一人として手をかさない。
誰かの手を借りよう物ならタイヘンだ!......すぐにいわれただろう
”普通学級は無理です”と...。
ここへは毎年、十分なケアを必要とする仲間達も呼び出される。
母親だけで来たらたいへんだ。首の座らない子をだいて階段を登るのは危険だし、相互の負担も大きいことは熟知当然のことと思うが、わがままなのだろうか?
社会にどこまで求めていくのか、これからの課題である。入学してから2年がすぎようとしている。普通学級に通う障害児たちのこれからを考える会を確立したいとおもっている。
あ ゆ み
3か月に1度通う札幌の寮育訓練で、これまでの集大成とでもいうべきか
それまでクラッチもやっとのはずの息子が「歩けそうな気がするから...見てて」といいながら歩いた。
もちろんほんの数歩、歩けたと認めるのは私くらいだろう。夢にまで見た姿...顔を真っ赤にして...1...2...3...
その後先生と雑談している私を残して、ふうっと消えた数分間、シャイな君はどこでうれし涙と鼻水をふいていたのか...くしゃくしゃの笑顔で待ちあい室の夫のもとへ...このときふっとよぎった思い、この後何か大きく体調をくずさないといいけど!!...があたってしまう。
障害の上に難病まで...なんてご丁寧にかぶさってくるんだろう。
血小板減少性出血紫斑病:国内特定疾患で2か月の入院治療を余儀なくされる。
鼻血や歯茎の出血におびえる毎日だ。
薬のせいで会う人ごとに太ったとか、おたふくとかいわれるものでご機嫌ななめだ!
いつ見ても子供の寝顔は最高だ、こんなかわいい寝顔はみてなきゃ損!!
そう思っての見張り番、楽しもう...きっと元気になるんだ。
きかんぼうでやんちゃだから、車いすと歩行器には保険をかけようと思ってたんだもの。
私の願いはひとつだけだったのに...。
なにもいらないから、ただ日々健やかに登校し友達と語らい・あそび・平穏に眠れる夜があればいい!!
皆が日頃思っていること、ありきたりの願いさえも贅沢なのだろうか?
2か月の寝たきり生活がくれたものは、おどろくほどの両手の器用さ。
プラモデルに折り紙、子供はなんてすごいのだろうか。
入院さえも無駄にはしない。折り紙などはできないものと、とうにあきらめていたのに今では一人で本をみてつくっている。
君の努力、地域の仲間達にささえられて乗り越えて来た大切な糧をほこり
にして、不自由な街だけれど、心豊かに生きていきたい。
全ての人に感謝を込めて!!
by razuberi3
| 2001-02-25 19:46
| ITP