子育てが終わって、これからが私の独り歩きです!


by razuberi3
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小学校生活

小学校生活の思いで


 平成9年4月、地域の普通学級に入学しました。

 私達が子供の時は、1*2年生なんて遊んでばかり、楽しくてしょうがなかった思いでしか浮かんでこないのです。字が書けなくても、動作のゆるやかな子、走ってばかりいる子がいても、それなりに?....なんていうとしかられますか?、先生は目に止めていて指導されていました。

 特にハンデについて説明もなく、お友達していたのです。

 それが全て通ると思っていたわけではなく、ふと思い出したのです。私のすごした小学生時代として........

 さて学校生活がスタ-トしてみると、上の子を通して知り合っていた子供達が実によく世話をしてくれて、もちまえの明るさで友達をたくさん得たのでした。5月の連休までは教室でKの後ろに席が設けられて、つきっきりでした。その後は、図書室での待機となり、やがては移動のあるときに出向くというふうに進行していきました。

 本当は「幼稚園では単独通園」でしたから、1人で始めたほうがよいと思いましたが、もめたくなくて...またすこしずつ理解してもらおうという気持ちでつきそったのです。

 また姉がいじめにあったらと就学相談で心配されましたが、それも乳幼児の時から地域の子供達のなかで過ごしていたので、姉の負担にならず、いじめにもいたりません。ハンデをもちながら田舎で普通にすごすのですから、隠すものもなく、日々おおらかに遊びまわっていました。

 大人のうけより、とにかく子供同士楽しくすごすことを求めていました。
 
 友達とたくさんふれあって、その中で、回りの子供達は手をかすタイミングをよくおぼえて、それは自然に時が流れていきました。
 
 40人学級で、狭い教室のなかでは、PCウオ-カ-での移動に限界がありましたので、教室での移動については、よつばいをしていました。

 あとで知ったのですが、1日になんども1番後ろの席から1番前の黒板や先生の所へと往復していました。手紙をとりにいくとか、ノ-トを出しにいくとか、教材をもらいにいくとか、そのつどの移動に私は気がつかず、Kはがんばっていました。

 そしてある日、歩行機から机に向かうときにバランスをくずしてころびました。しばらく意識がなかったことを息子のくちから知りました。

 ころんだ時に教室にいながら様子をみてもらえなかったそのときの不安と心配から私の意思で、校内の移動は全て車椅子に変更しました。

 そのころから、図工のあとかたずけに床にはいつくばってのごみ拾いが、息子だけ次の授業中も行われ、一人だけ国語の授業を受けていないとか、不況和音を強く感じるようになりました。

 担任は現行では、1*2年はもちあがりですから正直いってあせりました。なんとか担任とうまくやりたいと思っていたのです。けれども子供への指導が強まるにつれて、それもあきらめました。

 2年生に上がる前にもまた就学相談がありました。思いきって、転校をも考えていること、途方にくれている胸のうちを、かくさず話してみました。

 そのときの教育委員会の先生は、実にやさしく、「おかあさんは自信をもっていいんです!....これをとじましょう」と、担任からの報告書をしまわれました。そしてなんとか2年生をこのままのりきってしまいませんか。

 うまくいきそうなてだてをバックアップしていくのも教育委員会の仕事だと説明されました。いままでは、すきがあれば養護学校への転校を、ほのめかされていたので気がぬけてしまいました。

 そうしてまた新たな気持ちで2年生にいどんだのですが、修正不可能でした。もう学校での話しはしなくなり、大人の男性とは恐怖で目をあわせることもありません。

 でもそんな時でも毎日遊ぶ友達がいたのが、救いでした。

 ベランダにちいさな背中を並べての会話です。

“ぼく達が大人になるころは、K君の車椅子はもう、ちっとも不自由ではないから二人でどこへでもいけるんだってよ!”
 
 “ねえ、おばさん、おばさんもおかあさんもだめだよ、ぼくたちバーとか居酒屋で仕事の話ししながらお酒のむかもしれないんだからね!”

“もう、たぶん、ずーっと友達だね!”

 二人でかたい約束をしてからというもの、たいへんな仲良しです。

 転校にふみきれなかったのも、友達がいつもそばにいてくれたから。

 最終的には子供同士の関係がうまくいっていたから、Kが自分で自分の居場所をみつけたから、乗り越えたとおもいます。
                  
 もう一息で2年生の2学期が終わろうとしている10月なかごろでした。微熱が続き、体が衰弱してくるようで、学芸発表会の疲れかなと思っているうちに発病。

 血小板減少性出血紫斑病という難病でした。

 ぴかぴかの一年生から、たいへんだったよね。ゆっくり休もうと2か月に及ぶ入院生活にはいりました。

 面会謝絶で友達に会えないストレスさえもプラモデルやゲームボーイで乗り越え、体調がおちついてからは、授業で使ったプリントを姉に届けて貰っては、提出していました。

 家族で乗り越えた入院生活にうかれていたのか、私の考え方がファジィなのか、やっとこ復帰した2学期の修業式に手渡された通知表は、「ただ斜線がひかれていて...」

“今学期は欠席のため、全項目評価に至っていません”というものでした。

 中学や高校では、長期欠席の場合にノートやプリントをだすと単位が貰えたように思うのですが........規定がないのかもしれません。

 その先生次第でしょうか。

 ただこの2年間、孤軍奮闘の空回りで、息子をを病気にまで追こんだ馬鹿な母親でした。そんな思いと、私は変な親なんだろうか、ただ過保護なだけなんだろうか、いたたまれない思いのなかで、Kはりっぱに成長していました。

 新任の校長先生から3年生に向けてのお話しがあったときに、開口一番『実によくがんばってきましたね!』3年生はたのしい生活をおくれるよう、良く考えておきます。とのことでした。

 それから10日ほどして3年生をむかえました。24才の若く明るい先生と楽しい学校生活が始まりました。ほとんどの教室移動などは、先生がおぶってくださいました。介助にいく回数は、半減しました。

 時がゆるやかに流れていくのを感じはじめたころ、私の体のなかでも悲鳴があがっていました。心臓が苦しくて歩けない、階段が上れない、意識がうすれてくる、貧血レベルが「3」ということで、その日より寝たきりで、体重も7キロほどおちていました。癌の恐怖におののきながらも、入院をしなかったのは、「息子の普通学級での生活を守るため」です。

 たとえ私が死んでも、この子が通学できるよう、援助体制を私が作っておかなくてはならなかったんです。

 通学援助ボランテイアをさがして、遠足や社会科見学のつきそい、まだ普通学級には障害児ケアに関しての制度はなにもない田舎ですから、すべて母親の責任でととのえなくては成りません。

 ふとんの上でよくFAXを書きおくりました。そのなかで地域も近く、顔見知りの看護婦さんがいる福祉相談所でボランテイアに息子がなじんでいけるよう時間をかけて対処しようと全面的な協力が得られました。

 安心しての1年間の闘病生活にいたりました。それでも、今まで母の介助になれていましたので、1度自家中毒をおこしました。また、言語の吃りもあります。ストレスには、ちがいないでしょう。
 
 でも、できなかったトイレも今は、手すりをつけてもらい、自立しています。
 ゆるやかではありますが、母から離れることで、自立の一歩をふみだし、4年生では27人クラスになり、担任の先生も変わりました。

 きちんと引き継がれていまは、とても楽しい学校生活です。明るく元気な先生のクラスでは、こどもたちも活発です。吃りがあるにもかかわらず、クラス代表であいさつをしたり、図書委員をしました。

(そのさいにも、つっかかってもいいから元気にいこうぜ!)

 ちょっとしたケアをしてくださいます。息子に限ってのことではなく、クラスの子供への対応がすばらしいのです。同じあつかいが、うれしいのでした。(障害児だからだめといわれないこと。)

 体育では、歩けないのにマット運動で前転ができるようになりました。

 一生のうちで、何人出会うかなと思う先生です。

 ボランテイアの皆さんをはじめ、校長先生、担任、特別教科の先生は私達の学校生活をとても自然にささえてくれています。

 そのなかで階段移動は、体が大きくなるにつれて介助する側もされる側も大変なので、階段昇降車をいれようと提案されました。

 教育委員会との話し合いは、校長先生がなんども足を運んでくださいました。

 平成12年9月、階段昇降車の試乗会をひらきました。

 教育委員会の担当者とともに、先生やKを試乗させて、業者さんには道内の頒布状況と購入の説明も御願いしました。

 道に相談と、指導の御願いをして、署名運動もはじめました。各企業と組合関係に、おねがいし、街頭にもたちました。12月冬の活動は寒くて、寒くて、一筆一筆がとても暖かったです。

 12月22日、教育委員会へ7056筆の署名を提出するに至りました。

 議会でもとりあげられ、特学と普通学級のかきねをつくらず、希望する車椅子の子供達に貸与すること、所有を教育委員会として転校や中学進学に対応することを御願いしています。

 一人で始めたことですが、PTAをはじめ有志一同の協力を得られ、大きな力となって、実現することができました。
 平身低頭御願いして、ちいさな力での活動ですが、時が流れていくようにやさしく生活できるように便利な町に育ってくれたらとおもいます。子供達は、年齢による期限があります。実現が時として間に合わないこともあります。

 以前、障害児も保育園に入れるように誠心誠意もとめましたが、私の子供が通園している間は、だめでした。でも今は、後輩のお母さんがいきいきと働かれています。よかったとおもいます。そのとき、そのとき成長の過程で間に合わないと困ることもあります。

 福祉にたずさわる皆さん、教育委員会の皆さん、そしてこのたびの文部省の見直しですが、この間ハンデを持ちながら普通学級へ通い卒業し、一般社会で働かれている方々がたくさんいらっしゃいます。移動や学び続けるのは、どんなに苦労したことでしょう。ご自身、ご家族の苦労には、頭がさがります。

 時が進むと同時に教育と福祉もタイアップして、どのこも育つやさしい学校を未来に向けてはぐくんでほしいものです。
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by razuberi3 | 2001-03-25 19:49 | ITP