子育てが終わって、これからが私の独り歩きです!


by razuberi3
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ジャック

  ジャックと木いちご

  ある日ジャックは 木いちごの種をまいた...とても小さい種を

  小さな芽は 雨や風を不器用にもかわしながら 育ちはじめた

  ジャックは 生きるために大切なことをたくさん覚えた

  ジャックの心は 13年をかけて とても強くなった 

  みんなとスポーツを初めて 体も少し大きくなった

  ジャックは たくさんの仲間たちと 歩いている

  こんな生き方もあるさ....と種をまいて 蔓を伸ばして

  ジャックは 木いちごをいっぱい実らせて
 
  今日も 元気に走っていく きこきこと音をたてて....
 

  ジャックの母さん  厳しいかあさん  泣き虫母さん

  真っ赤な小さな実を たくさん実らせていきたいな!
 
  甘酸っぱい思いを たくさんかかえて歩いているの
 
  ひとつぶ ひとつぶ 大切に育てていこうと思うのです

       太陽とお水と大地を仲間に...
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# by razuberi3 | 2001-04-01 23:36 | 言の葉

小学校生活

小学校生活の思いで


 平成9年4月、地域の普通学級に入学しました。

 私達が子供の時は、1*2年生なんて遊んでばかり、楽しくてしょうがなかった思いでしか浮かんでこないのです。字が書けなくても、動作のゆるやかな子、走ってばかりいる子がいても、それなりに?....なんていうとしかられますか?、先生は目に止めていて指導されていました。

 特にハンデについて説明もなく、お友達していたのです。

 それが全て通ると思っていたわけではなく、ふと思い出したのです。私のすごした小学生時代として........

 さて学校生活がスタ-トしてみると、上の子を通して知り合っていた子供達が実によく世話をしてくれて、もちまえの明るさで友達をたくさん得たのでした。5月の連休までは教室でKの後ろに席が設けられて、つきっきりでした。その後は、図書室での待機となり、やがては移動のあるときに出向くというふうに進行していきました。

 本当は「幼稚園では単独通園」でしたから、1人で始めたほうがよいと思いましたが、もめたくなくて...またすこしずつ理解してもらおうという気持ちでつきそったのです。

 また姉がいじめにあったらと就学相談で心配されましたが、それも乳幼児の時から地域の子供達のなかで過ごしていたので、姉の負担にならず、いじめにもいたりません。ハンデをもちながら田舎で普通にすごすのですから、隠すものもなく、日々おおらかに遊びまわっていました。

 大人のうけより、とにかく子供同士楽しくすごすことを求めていました。
 
 友達とたくさんふれあって、その中で、回りの子供達は手をかすタイミングをよくおぼえて、それは自然に時が流れていきました。
 
 40人学級で、狭い教室のなかでは、PCウオ-カ-での移動に限界がありましたので、教室での移動については、よつばいをしていました。

 あとで知ったのですが、1日になんども1番後ろの席から1番前の黒板や先生の所へと往復していました。手紙をとりにいくとか、ノ-トを出しにいくとか、教材をもらいにいくとか、そのつどの移動に私は気がつかず、Kはがんばっていました。

 そしてある日、歩行機から机に向かうときにバランスをくずしてころびました。しばらく意識がなかったことを息子のくちから知りました。

 ころんだ時に教室にいながら様子をみてもらえなかったそのときの不安と心配から私の意思で、校内の移動は全て車椅子に変更しました。

 そのころから、図工のあとかたずけに床にはいつくばってのごみ拾いが、息子だけ次の授業中も行われ、一人だけ国語の授業を受けていないとか、不況和音を強く感じるようになりました。

 担任は現行では、1*2年はもちあがりですから正直いってあせりました。なんとか担任とうまくやりたいと思っていたのです。けれども子供への指導が強まるにつれて、それもあきらめました。

 2年生に上がる前にもまた就学相談がありました。思いきって、転校をも考えていること、途方にくれている胸のうちを、かくさず話してみました。

 そのときの教育委員会の先生は、実にやさしく、「おかあさんは自信をもっていいんです!....これをとじましょう」と、担任からの報告書をしまわれました。そしてなんとか2年生をこのままのりきってしまいませんか。

 うまくいきそうなてだてをバックアップしていくのも教育委員会の仕事だと説明されました。いままでは、すきがあれば養護学校への転校を、ほのめかされていたので気がぬけてしまいました。

 そうしてまた新たな気持ちで2年生にいどんだのですが、修正不可能でした。もう学校での話しはしなくなり、大人の男性とは恐怖で目をあわせることもありません。

 でもそんな時でも毎日遊ぶ友達がいたのが、救いでした。

 ベランダにちいさな背中を並べての会話です。

“ぼく達が大人になるころは、K君の車椅子はもう、ちっとも不自由ではないから二人でどこへでもいけるんだってよ!”
 
 “ねえ、おばさん、おばさんもおかあさんもだめだよ、ぼくたちバーとか居酒屋で仕事の話ししながらお酒のむかもしれないんだからね!”

“もう、たぶん、ずーっと友達だね!”

 二人でかたい約束をしてからというもの、たいへんな仲良しです。

 転校にふみきれなかったのも、友達がいつもそばにいてくれたから。

 最終的には子供同士の関係がうまくいっていたから、Kが自分で自分の居場所をみつけたから、乗り越えたとおもいます。
                  
 もう一息で2年生の2学期が終わろうとしている10月なかごろでした。微熱が続き、体が衰弱してくるようで、学芸発表会の疲れかなと思っているうちに発病。

 血小板減少性出血紫斑病という難病でした。

 ぴかぴかの一年生から、たいへんだったよね。ゆっくり休もうと2か月に及ぶ入院生活にはいりました。

 面会謝絶で友達に会えないストレスさえもプラモデルやゲームボーイで乗り越え、体調がおちついてからは、授業で使ったプリントを姉に届けて貰っては、提出していました。

 家族で乗り越えた入院生活にうかれていたのか、私の考え方がファジィなのか、やっとこ復帰した2学期の修業式に手渡された通知表は、「ただ斜線がひかれていて...」

“今学期は欠席のため、全項目評価に至っていません”というものでした。

 中学や高校では、長期欠席の場合にノートやプリントをだすと単位が貰えたように思うのですが........規定がないのかもしれません。

 その先生次第でしょうか。

 ただこの2年間、孤軍奮闘の空回りで、息子をを病気にまで追こんだ馬鹿な母親でした。そんな思いと、私は変な親なんだろうか、ただ過保護なだけなんだろうか、いたたまれない思いのなかで、Kはりっぱに成長していました。

 新任の校長先生から3年生に向けてのお話しがあったときに、開口一番『実によくがんばってきましたね!』3年生はたのしい生活をおくれるよう、良く考えておきます。とのことでした。

 それから10日ほどして3年生をむかえました。24才の若く明るい先生と楽しい学校生活が始まりました。ほとんどの教室移動などは、先生がおぶってくださいました。介助にいく回数は、半減しました。

 時がゆるやかに流れていくのを感じはじめたころ、私の体のなかでも悲鳴があがっていました。心臓が苦しくて歩けない、階段が上れない、意識がうすれてくる、貧血レベルが「3」ということで、その日より寝たきりで、体重も7キロほどおちていました。癌の恐怖におののきながらも、入院をしなかったのは、「息子の普通学級での生活を守るため」です。

 たとえ私が死んでも、この子が通学できるよう、援助体制を私が作っておかなくてはならなかったんです。

 通学援助ボランテイアをさがして、遠足や社会科見学のつきそい、まだ普通学級には障害児ケアに関しての制度はなにもない田舎ですから、すべて母親の責任でととのえなくては成りません。

 ふとんの上でよくFAXを書きおくりました。そのなかで地域も近く、顔見知りの看護婦さんがいる福祉相談所でボランテイアに息子がなじんでいけるよう時間をかけて対処しようと全面的な協力が得られました。

 安心しての1年間の闘病生活にいたりました。それでも、今まで母の介助になれていましたので、1度自家中毒をおこしました。また、言語の吃りもあります。ストレスには、ちがいないでしょう。
 
 でも、できなかったトイレも今は、手すりをつけてもらい、自立しています。
 ゆるやかではありますが、母から離れることで、自立の一歩をふみだし、4年生では27人クラスになり、担任の先生も変わりました。

 きちんと引き継がれていまは、とても楽しい学校生活です。明るく元気な先生のクラスでは、こどもたちも活発です。吃りがあるにもかかわらず、クラス代表であいさつをしたり、図書委員をしました。

(そのさいにも、つっかかってもいいから元気にいこうぜ!)

 ちょっとしたケアをしてくださいます。息子に限ってのことではなく、クラスの子供への対応がすばらしいのです。同じあつかいが、うれしいのでした。(障害児だからだめといわれないこと。)

 体育では、歩けないのにマット運動で前転ができるようになりました。

 一生のうちで、何人出会うかなと思う先生です。

 ボランテイアの皆さんをはじめ、校長先生、担任、特別教科の先生は私達の学校生活をとても自然にささえてくれています。

 そのなかで階段移動は、体が大きくなるにつれて介助する側もされる側も大変なので、階段昇降車をいれようと提案されました。

 教育委員会との話し合いは、校長先生がなんども足を運んでくださいました。

 平成12年9月、階段昇降車の試乗会をひらきました。

 教育委員会の担当者とともに、先生やKを試乗させて、業者さんには道内の頒布状況と購入の説明も御願いしました。

 道に相談と、指導の御願いをして、署名運動もはじめました。各企業と組合関係に、おねがいし、街頭にもたちました。12月冬の活動は寒くて、寒くて、一筆一筆がとても暖かったです。

 12月22日、教育委員会へ7056筆の署名を提出するに至りました。

 議会でもとりあげられ、特学と普通学級のかきねをつくらず、希望する車椅子の子供達に貸与すること、所有を教育委員会として転校や中学進学に対応することを御願いしています。

 一人で始めたことですが、PTAをはじめ有志一同の協力を得られ、大きな力となって、実現することができました。
 平身低頭御願いして、ちいさな力での活動ですが、時が流れていくようにやさしく生活できるように便利な町に育ってくれたらとおもいます。子供達は、年齢による期限があります。実現が時として間に合わないこともあります。

 以前、障害児も保育園に入れるように誠心誠意もとめましたが、私の子供が通園している間は、だめでした。でも今は、後輩のお母さんがいきいきと働かれています。よかったとおもいます。そのとき、そのとき成長の過程で間に合わないと困ることもあります。

 福祉にたずさわる皆さん、教育委員会の皆さん、そしてこのたびの文部省の見直しですが、この間ハンデを持ちながら普通学級へ通い卒業し、一般社会で働かれている方々がたくさんいらっしゃいます。移動や学び続けるのは、どんなに苦労したことでしょう。ご自身、ご家族の苦労には、頭がさがります。

 時が進むと同時に教育と福祉もタイアップして、どのこも育つやさしい学校を未来に向けてはぐくんでほしいものです。
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# by razuberi3 | 2001-03-25 19:49 | ITP

君が生まれて

君が生まれて(1991.02.25)


 ビンビンビンという音と共に横を向いた小さな君が、あっという間に「土色」になり、石のように硬くなる。。。「だれか!!」と叫んだその時、看護婦がとんできて、人工呼吸を始めた。


 何事もなかったようにピンクの肌、呼吸をとりもどすまでに、どれほどの時を要したのかは、わからない。

 「おねがい、死なないで!」とおもいながら、ただふるえていた。

 人工呼吸器の管が折れ曲がると、酸素が届かなくなることがあるそうだ。

 それを聞いてから、眠れない夜が続く。毎日、毎日、母乳をはこびながら君をみつめて半年がすぎたころ、2200グラムに成長し、めでたく退院!


       5歳になる娘と共に待ちに待った退院だ。


 840グラムで生まれた君が、いまこの腕にだかれとてもよく笑う。


 ちいさな泣き声だけど、きっと元気な男の子になるだろう。

 小さく生まれたのだから、障害やおくれはあるのだろう、私の罪だけど悔いのないよう、少しでも一つでも楽しい思いと自由を手にして生きよう。



             じゃりんこ 

 長女の幼稚園で知り合ったお母さんたちが、上の子の登園後に”じゃりんこくらぶ”と称して、お弁当もちよりで下の子を連れて集まって遊んだり、よろず育児相談会や学習会をしていた。

 「たった27週しかお腹のなかで育ててあげられなくてごめんね!」

 五体不自由に産んでしまい、私は1人前の女ではないという思いで途方にくれた時....町行く人の心ない言葉にうちひしがれたとき....公的制度にいくてをはばまれたとき....そのときどきに”じゃりんこ”が心の支えとなり、サポートしてくれた。

 いつもそこでパワーをもらい、転勤族で育って来た私がそこで、初めて「地域で暮らすことの意味」を知ることになる。

 転勤のない夫と知り合い、この土地で生きていくこととなり、子供が産まれてからも好きにはなれずにいた街が、かけがえのない人の輪をさずけてくれた。



             診断を受けて 

 君が1歳をすぎたころ、ようやくずりばいを始めた頃だったと思う。北九州で500グラム程で産まれた赤ちゃんが、1年たった今こんなに元気に育ちましたとテレビの画面で飛び跳ねていた。

 涙がとまらない....「ごめんね、小さく生まれても元気な子がいるよ、どうしよう、パパごめんね!」...もう落ち込む気持ちはとまらない。

 このまま時が過ぎるのは我慢できない、はっきりさせたいと医師につめより、1歳3か月で「脳性運動障害の診断と訓練施設の紹介」をうけた。


 小さく生まれたから遅れていて当然とか、お母さんのノイローゼなどと言われ....手遅れになると悩むあせりから救われ、どこかほっとしていた。


 たくさんの言葉を話す君がやがて、「あんよ、たっち、どちて?」と聞きはじめたのもこの頃だった。絶句する私にかわり、じゃりんこで親しくしている友人が、「カワイイアンヨ!大事にしようね!」と頭をなでていってくれた。

 「わかるときがきたら、貴方の言葉で伝えなさい。それまでに、う〜んと勉強しようね!」

 いつでも相談にのるから皆で守っていこうと....心を開くこと・自分だけで囲ってしまわないようにと諭された。

 孤独で氷河のようにとざしていた何かがスーッととけていった。

 日本社会では典型的な我が家だもん! 

 私の愚痴など聞く暇はない夫に、食べて寝るだけで精一杯の家庭なのだ。

 そんなとき、こぼせる相手はオアシスだった。



             障害児保育


 3歳を迎える頃、通園施設を探していた時も、じゃりんこの仲間達が情報を集め協力してくれたうえに、障害児保育の認可にも力をそそいでくれた。

 リズム運動をとりいれた個性的な保育に魅かれて訪ねた時、「よくここまで育てられましたね!これからは共に頑張りましょう。」といわれた。

 市に認められるまでということで、翌日から母子通園が始まった。

 0歳から5歳までの園児が全部で40名程のアットホームな小さなところ木の香りがやさしい園舎だ。

 よつばいがやっとのKに、5歳児がバケツで水を浴びせる事件がおきた。
 Kのクラスのきかんぼうたちがいち早くかけつけ、むせて苦しむ子を守るように囲み、抗議をしていた。

 「もう仲間になっていて、助け合っているんだよ!」子供同士で解決できそうな時には、見守ることを私自身が学んだ。

 子供達に励まされて、君はよつばいでどこへでも行くようになる。

 そんなエピソードがいっぱいにあふれるころ、ついに運動は市議会へもちこまれた。その後の対応ものらりくらりとままならぬゆえ、北海道公聴課に手紙を書き、やっとの事で市も障害児保育を認めた。

 入園からすでに1年半がすぎていた。

 娘の学校と保育園とパートと障害児の水泳療育活動と走り回り、この頃は夫とすれ違い生活で、夫が何を考えていたか、何を着ていたか知らない。

 あまりの忙しさに体調をくずしたことと、入学までは字を教えないという趣旨にやむなく退園、4歳の秋に幼稚園にかわった。

 障害児4人に1人の先生がつき、完全母子分離の通園が保障されていた。
 運動会では、きれいな芝生の上をよつばいで競争した。同じレベルの子供と共に統合保育がおこなわれるのは、よかった。

 なかまがいて、なおかつお友達が居て、歩けないのは自分だけではないという心強さがある。

 その上、長時間保育で5時までいられるので、わたしにとっても夢のような時間があたえられた。仲良しのお母さん達とお茶を飲んだり、本を読んだり、いつになく優雅な時をすごしていた。楽しい時は、嵐のようにすぎた。


             御  入  学

 就学相談をむかえた。

 いつも、いつも、おねえちゃんの友達が遊びに来ていて、年齢をこえた友達がたくさんいるから、Kは地域の学校を信じて疑わない。

 難しいことは、障害児保育の認可運動を通じてわかっていた。

 予想しなかったのは、著しくKの心を傷つけられたこと。

 親とは別室に通され、初対面のおじさんが複数で何やら質問をする。

 早生まれでまだ5歳の子供に聞いて良い内容だろうか?

 「たいへんなおみやげ」をもらうことになってしまう。怒りはかくせず、のちにしっかりと謝罪の言葉をいただいたものの、繰り返される相談に疲れ円形脱毛症になってしまった。それまで気がつかなかった私がくやまれた。

 まったく愚かな親である。

 ”君が入学して、おねえちゃんが登校拒否になったらどうするか?”

 ”自殺する人もいるんだよ”

 おかあさんがたいへんだから...別室で私が聞かれたことそのままだ。


 もっと有意義な質問マニュアルをつくられないだろうか?

 せめて子供にだけは、”一人で困った時はどうしたらいいとおもう?”

 ”できないことはお友達に頼めるかい?”など学校生活に役立つことを聞いてくれてもバチはあたらないだろう。


 面倒なことは両親に告げるべきだ!!


 世界人権宣言を、ピアジェの教育論を少なくても把握すべきだ。

 それでも裁判に至らず入学できたのは、地域や多くの人の支援のたまもので、また先をいく子供達の努力とご両親の尽力とおもい、深く感謝している。

 我が町では、就学相談会場に自動ドアはもちろんエレベーターもない。

 面接室は階段を40段程上がった2階の奥だ。6人もの先生に囲まれて登ったが....息子を背おい、夫が車いすをかついでも誰一人として手をかさない。

 誰かの手を借りよう物ならタイヘンだ!......すぐにいわれただろう

 ”普通学級は無理です”と...。

 ここへは毎年、十分なケアを必要とする仲間達も呼び出される。

 母親だけで来たらたいへんだ。首の座らない子をだいて階段を登るのは危険だし、相互の負担も大きいことは熟知当然のことと思うが、わがままなのだろうか?

 社会にどこまで求めていくのか、これからの課題である。入学してから2年がすぎようとしている。普通学級に通う障害児たちのこれからを考える会を確立したいとおもっている。


              あ  ゆ  み

 3か月に1度通う札幌の寮育訓練で、これまでの集大成とでもいうべきか
それまでクラッチもやっとのはずの息子が「歩けそうな気がするから...見てて」といいながら歩いた。

 もちろんほんの数歩、歩けたと認めるのは私くらいだろう。夢にまで見た姿...顔を真っ赤にして...1...2...3...

 その後先生と雑談している私を残して、ふうっと消えた数分間、シャイな君はどこでうれし涙と鼻水をふいていたのか...くしゃくしゃの笑顔で待ちあい室の夫のもとへ...このときふっとよぎった思い、この後何か大きく体調をくずさないといいけど!!...があたってしまう。


 障害の上に難病まで...なんてご丁寧にかぶさってくるんだろう。

 血小板減少性出血紫斑病:国内特定疾患で2か月の入院治療を余儀なくされる。
 
 鼻血や歯茎の出血におびえる毎日だ。

 薬のせいで会う人ごとに太ったとか、おたふくとかいわれるものでご機嫌ななめだ!

 いつ見ても子供の寝顔は最高だ、こんなかわいい寝顔はみてなきゃ損!!

 そう思っての見張り番、楽しもう...きっと元気になるんだ。

 きかんぼうでやんちゃだから、車いすと歩行器には保険をかけようと思ってたんだもの。

  
       私の願いはひとつだけだったのに...。

 なにもいらないから、ただ日々健やかに登校し友達と語らい・あそび・平穏に眠れる夜があればいい!!

 皆が日頃思っていること、ありきたりの願いさえも贅沢なのだろうか?

 2か月の寝たきり生活がくれたものは、おどろくほどの両手の器用さ。

 プラモデルに折り紙、子供はなんてすごいのだろうか。

 入院さえも無駄にはしない。折り紙などはできないものと、とうにあきらめていたのに今では一人で本をみてつくっている。


 君の努力、地域の仲間達にささえられて乗り越えて来た大切な糧をほこり
にして、不自由な街だけれど、心豊かに生きていきたい。


          全ての人に感謝を込めて!!
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# by razuberi3 | 2001-02-25 19:46 | ITP

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白 い 冬

 雪が しんしんとふっています

 町は真っ白で 静寂につつまれています 
 
 今夜は雪女がでそうな 冷たい空気
 
 音もなく降り続く雪に 心が少しおびえます
   
 北国の厳しい自然が 見えてきます 
 
 気を抜くと車が雪に うもれてしまう 
 
 ただしんしんと降り積もる雪に あなたは何を思いますか 
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# by razuberi3 | 2001-02-21 23:44 | 言の葉